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「崔杼弑其君光」という文字に込められた意味―歴史への取り組み方を教わったエピソード!

次の一文は、中国・春秋時代の魯国出身の孔子( 孔 ( こう ) 丘 ( きゅう ) )によって編まれた、春秋時代を編年体で記録した歴史書『 春秋 ( しゅんじゅう ) 』の注釈書として 左 ( さ ) 丘明 ( きゅうめい ) という同じく魯国の太史が撰した『春秋左氏伝』に書かれたエピソードの1つです― 大史書曰、斉崔杼弑 ニ 其君光 一 大史、書して曰く、「斉 崔 ( さい ) 杼 ( ちょ ) 其の君(=荘公(光))を 弑 ( しい ) す」と 崔子殺 レ 之 崔子(=崔杼)之(=太史)を殺す。 其弟嗣書、而死者二人 其の弟嗣ぎて書して死する者二人。 其弟又書、乃舍 レ 之 其の弟又書す。乃ち之を 舍 ( ゆる ) す。 南史氏聞 ニ 大史盡死 一 、執 レ 簡以往 南史氏、大史 尽 ( ことごと ) く死するを聞き、簡(=竹簡)を執りて以て往く。 聞 ニ 既書 一 矣、乃還 既に書せりと聞いて及ち還る。 ― ◇ ◇ ◇ ― 中国・春秋時代の魯襄公25年(BC.548)の夏(=5月)の事、隣国である斉に仕えた宰相の 崔杼 は恵公(元)・頃公(無野)・霊公(環)・荘公(光)・景公(杵臼)の時代にわたって専横を奮った人物です。なかでも荘公(光)を私的な恨みから 弑する (→弑す、とは身分が上位の者を殺す事)という事件が起こりました。 斉の 太史 (歴史などの記録を掌る官=史官の長官)はその史実を 「崔杼弑其君光」(崔杼、其の君を弑す) と記録します。因みに、史官という官職は、その豊富な経験や知識を駆使して王や諸侯をサポートする立場にあります。 それを聞いた 崔杼 は怒って 太史 を殺しましたが、その職を嗣いだ弟も同じ様に 「崔杼弑其君光」 と記録したために殺したところ、更に職を嗣いだ弟も同様に頑として 「崔杼弑其君光」 と記録したので、 崔杼 は諦めてそのまま記録を是認します。 一方、南史氏という地方の史官は、 太史 の者が皆死んだと聞きつけ、 「崔杼弑其君光」 と記録した竹簡を持って斉の国に出かけて往きました。しかし、その途次、もう 太史 の者が記録に書きつけたと聞いたので、任地に引き返しました。 ―という感じです。 このエピソードは 古代中国の歴史に対する姿勢を端的に表したもの として有名な故事です...